LOGIN第4話 玲奈、午前零時十二分
紙片に書かれた「玲奈 00:12」という文字を見つめながら、詩織は、その名前を今朝初めて聞いたという自分の認識が崩れていくのを感じていた。
正確には、詩織自身は初めて聞いた。だが貴之は知っていた。それも、わざわざ時刻と並べて書き残す程度には、昨夜会う予定のある相手として。
如月玲奈。
二十歳の女子大生。
今朝五時すぎに警察署へ出頭し、河川敷で貴之を刺したと供述している女。
その玲奈の名前の横に、午前零時十二分。
詩織が貴之の呼吸が止まったと思ったのは午前零時十四分だった。
わずか二分前である。
紙を持つ指先が冷えていく。
貴之は零時十二分に玲奈と何をする予定だったのか。電話なのか、待ち合わせなのか。それとも、その時刻そのものに別の意味があるのか。
さらに、その一行下には、
『予定変更なら十二分ずらす』
とある。
壁時計の遅れと、数字まで一致していた。
偶然と考えるには出来すぎている。
詩織は紙片をダイニングテーブルへ置き、スマートフォンで表と裏を撮影した。証拠を隠すつもりなら、こんなものは処分するべきなのかもしれない。けれど捨てた瞬間、自分は二度とその内容が偶然だったのか確かめられなくなる。
それに、警察が家を調べれば、遅かれ早かれ見つかる可能性がある。
問題は、いつ見つかるかだった。
今すぐ渡せば、当然こう聞かれる。
なぜ夫の私物を調べたのか。
なぜ玲奈の名前を見て驚いたのか。
なぜ零時十二分という時刻を気にするのか。
その質問のどこかで、昨夜の自分へつながる。
詩織は紙片を元の集合写真に挟み、寝室の引き出しへ戻した。位置も、向きも、できる限り元どおりにする。
その動作を終えたあとで、自嘲したくなった。
もう貴之は帰ってこない。
引き出しを勝手に開けたと責める人間もいない。
それでも詩織の指は、写真の角を以前あったと思われる位置へきちんと揃えていた。
四年という時間は、夫が死んだからといって一晩では消えないらしい。
午前九時四十分。
身支度を整えた詩織は家を出た。
エレベーターへ向かう途中、七〇三号室の前を通ったが、柚木由香里の気配はなかった。
警察へ行けば、由香里の証言について話すべきなのか。
詩織はまだ決められなかった。
由香里自身が警察に話すと言っている。ならば自分が先回りする必要はない。そう考える一方で、それはただの理屈であり、実際には木島の存在をもう少し自分だけで確かめたいのだとも分かっていた。
貴之を午前零時半過ぎに連れ出した男。
夫の仕事仲間。
そして、メモに午後十一時五十分と名前を並べて書かれていた人物。
木島隆臣。
貴之は倒れる前から、木島と会う予定を持っていた。
そこだけは、おそらく間違いない。
駅まで歩く途中、風が思いのほか冷たかった。十月に入ったばかりの朝は、日差しだけを見ればまだ暖かそうなのに、ビルの間を抜ける風にはもう冬の匂いが混じり始めている。
改札を抜けるところで、詩織はふと思った。
貴之は昨夜、ここを通ったのだろうか。
自宅から河川敷までは四キロ。
灰色のスニーカーがなくなり、鍵も消えていた。
歩いたのか。車に乗ったのか。それとも木島の車だったのか。
どれもまだ事実ではない。
分からないものを分かったことにするな。
それは大学時代、論文指導を受けた教師から何度も言われた言葉だった。
詩織は出版社に勤めていたころ、原稿の校閲を担当したことがある。文章の中では「推測」と「事実」を混同すると、たった一語で全体の信頼性が崩れる。
今、自分がしていることも似ている。
ただし間違えた場合、赤字を入れて直せば済む話ではなかった。
*
県警本部の建物は、外から見るより内部のほうが古かった。
白い壁には細かな傷があり、廊下には消毒液とコピー用紙の匂いが混じっている。
受付で名前を告げると、朝来た若い刑事が迎えに来た。
「真山さん、お越しいただいてありがとうございます。こちらです」
名乗ったはずだが、詩織は彼の名字を覚えていなかった。
覚えていない自分を責める必要はない、と頭では分かる。だが貴之なら「人の名前くらい一度で覚えろ」と言っただろう。
そんな声まで思い出す自分に腹が立った。
通された小さな部屋には、草壁が待っていた。
「朝から何度もすみませんね。体調は大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「無理に大丈夫と言わなくてもいいですよ。こういうとき、皆さんそう答えますから」
草壁は紙コップの水を詩織の前へ置いた。優しいようでいて、返事の内容そのものには興味がないようにも聞こえる。
「先に、ご主人を確認していただきます。そのあと少し話を聞かせてください」
「分かりました」
案内された先で、詩織は白い布をかけられた貴之と対面した。
覚悟していたつもりだった。
それでも顔が見えた瞬間、足元がわずかに揺れた。
貴之だった。
間違えようがない。
閉じたまぶたも、薄い唇も、左眉の端にある小さな傷も、四年間毎日のように見てきた夫の顔だった。
「ご主人で間違いありませんか」
後ろから草壁が尋ねた。
「……はい」
声は思ったより低く出た。
「真山貴之です。夫です」
それを言った途端、奇妙な感覚があった。
昨夜殺した男を、今初めて死者として確認している。
悲しいのかと聞かれれば、答えられない。
嬉しいとも違う。
解放されたと思ったのは、昨夜の一瞬だけだった。今はむしろ、死んだはずの男が別の形で自分の生活へ入り込み、以前より強く支配しているように感じられる。
職員が布を戻そうとしたとき、詩織は貴之の右手首に目を留めた。
赤黒い痕がある。
手首を強く掴まれたような、幅のある痣だった。
「待ってください」
思わず声が出た。
草壁が詩織を見る。
「どうしました?」
「あの痣……」
「手首ですか」
「昨日は、なかったと思います」
言ってから心臓が強く打った。
昨日はなかった。
それをどうして知っているのか。
草壁の目がわずかに細くなったように見えた。
「昨日、ご主人の手首をよく見ました?」
詩織は一瞬だけ答えに詰まった。
「夕食のとき、シャツの袖をまくっていましたから。あれだけ濃い痣なら、気づいたと思います」
「なるほど」
草壁はそれ以上追及しなかった。
それがかえって不気味だった。
詩織はもう一度、貴之の手首を見た。
昨夜、床へ倒れた貴之を寝室へ運んだとき、自分が掴んだ場所とは違う。詩織は脇の下から腕を入れて引きずった。手首を締めつけた覚えはない。
ならば、その痕は家を出たあとについた可能性が高い。
木島。
玲奈。
それとも、まだ知らない誰か。
死んだ夫の身体には、詩織の知らない昨夜の続きを示す痕跡が残っている。
*
確認を終えたあと、再び小部屋へ戻った。
草壁は向かいに座り、手帳を開いた。
「つらいところ申し訳ありません。いくつか時系列を確認させてください。朝と同じ質問もありますが、記録を正確にしたいので」
「はい」
「昨日、ご主人が帰宅したのは午後十一時ごろ」
「十一時五分くらいだったと思います」
「五分くらい?」
「正確には見ていません」
「夕食は?」
「主人は外で済ませていました。家ではコーヒーだけです」
昨朝の段階では夕食の話まではしていない。
草壁のボールペンが紙の上を動く。
「コーヒーを飲んだあと、ご主人は?」
「リビングにいました。パソコンを見ていました」
「何時まで?」
「私は先に寝室へ行ったので分かりません」
用意していた嘘だった。
だが口にすると、薄い紙を一枚ずつ積み重ねて自分の周囲に壁を作っているような気分になる。
いつ崩れるか分からない。
「何時に寝室へ?」
「零時前だったと思います」
「朝は、ご主人が寝室にいなかった?」
詩織は草壁を見た。
来た。
最初の朝、草壁が家へ来た時点では、詩織は夫が寝室にいるつもりで話していた。
だが警察が帰ったあと、確認すると消えていた。
そこをどう説明するか。
「警察の方が帰ったあと、寝室を見ました。いませんでした」
「驚きましたよね」
「当然です」
「でも朝、私が『ご主人は河川敷で亡くなっていた』と申し上げたとき、あなたは『主人なら』と言いかけました」
詩織の背中を汗が伝った。
草壁は手帳を見たまま続ける。
「『主人なら寝ています』とおっしゃるつもりだったんでしょうか」
「そうです」
「それなのに、実際にはいなかった」
「私も分かりません。夜中に出たんだと思います」
「今朝は『外出していない』と断言されましたね」
「私が気づかなかっただけです」
「なるほど」
また、それだった。
草壁は納得したとも、疑ったとも言わない。
詩織は紙コップの水に口をつけた。冷たさを期待したが、すでにぬるくなっている。
「真山さん」
「はい」
「ご主人は昨夜、灰色のスニーカーを履いていました」
詩織は紙コップを置いた。
「……そうですか」
「河川敷で発見されたときの靴です。奥様、朝、玄関を確認されました?」
答え方を間違えれば危険だと分かった。
「警察の方が帰ったあと、見ました。普段使っているスニーカーがなくなっていました」
「それで、ご主人が自分で出ていった可能性に気づいた?」
「はい」
「鍵も?」
詩織は顔を上げた。
草壁は初めて、ごく薄く笑った。
「河川敷で鍵も見つかっています。ご自宅のものか確認したところ、合致しました」
詩織は何も言わなかった。
「つまり、ご主人は少なくとも鍵と靴を持って家を出た可能性が高い。自分で準備して出たのか、誰かが準備したのかまでは、まだ分かりませんが」
自分で準備したのではない。
少なくとも靴は、貴之自身が履いた可能性がある。
だが木島が鍵を持たせた可能性もある。
由香里は、木島が貴之を支えていたと言った。
詩織は喉元まで出かかったその情報を飲み込んだ。
「ご主人に、昨夜会う予定の人がいたことをご存じですか」
今度は、本当に呼吸が止まりそうになった。
木島。
玲奈。
メモ。
「いいえ」
「女性の名前に心当たりは?」
草壁は手帳から目を上げた。
「如月玲奈さん以外でも構いません」
「ありません」
「男性は?」
「仕事関係なら、私はほとんど知りません」
「木島隆臣という名前は?」
詩織の指先から温度が消えた。
それでも表情は動かさないようにした。
「聞いたことはあります。主人の仕事関係の方だと思います」
「会ったことは?」
「たぶん、ありません」
写真で顔を見た。
由香里がその人物を指した。
だが直接会ったことは確かにない。
草壁は手帳を閉じた。
「木島さんは、ご主人と同じ会社ではありません。外部の協力会社を経営している方です。仕事上かなり深い付き合いがあったようです」
「そうなんですか」
「今朝から連絡を取っているんですが、まだつながっていません」
詩織の胸の内側が冷えた。
「つながらない?」
「携帯電話の電源が入っていないようです。会社にも今日は来ていない」
由香里の目撃が事実なら、木島は昨夜、貴之が生きていた最後の時間帯を知っている可能性がある。
そして今、連絡がつかない。
「何か気になりますか」
「いえ……主人と最後に会った人かもしれないなら、どうして連絡が取れないのかと思っただけです」
「最後とは限りませんよ」
草壁は静かに言った。
「如月玲奈さんがいますから」
詩織は黙った。
「玲奈さんは、ご主人を午前一時前後に河川敷で刺したと供述しています」
「午前一時……」
「ええ。ただ、細かい時刻については本人も混乱しているようです」
詩織の脳裏に紙片が浮かんだ。
『玲奈 00:12』
予定の時刻と、実際に河川敷で会ったとされる時刻には大きな差がある。
そして、その下に書かれた一文。
『予定変更なら十二分ずらす』
「草壁さん」
口に出したあとで、詩織は何を聞くべきか迷った。
「何でしょう」
「玲奈さんは……主人とどういう関係だったんですか」
「それをこちらも調べています」
「恋人だったんでしょうか」
「奥様はそう思われます?」
「二十歳の女性と夜中に会っていたなら、普通はそう考えるんじゃないですか」
自分でも驚くほど、声に棘が混じった。
嫉妬ではない。
夫の浮気を知って傷ついた妻を演じたわけでもない。
もし玲奈が貴之と親密な関係だったのなら、自分が四年間苦しめられている間に、貴之には外で別の顔があったということになる。
その事実に対する、純粋な苛立ちだった。
草壁は少しだけ考えてから答えた。
「男女が夜中に会えば恋人、というのは少し急ぎすぎでしょう。嫌いな相手と夜中に会わなければならないことだってあります」
詩織は草壁を見る。
「玲奈さんは、主人を嫌っていたんですか」
「人を刺した方ですからね」
「それは答えになってません」
初めて、草壁の口元に本物らしい笑みが浮かんだ。
「そうですね。失礼しました」
笑みはすぐ消えた。
「ただ、彼女がご主人について話すとき、恋人を失った人間には見えません。少なくとも私には」
「では、何に見えるんですか」
草壁はしばらく答えなかった。
廊下の向こうで電話が鳴り、誰かが早足で通り過ぎる。
「怖がっている人間です」
詩織の指が動きを止めた。
「死んだ主人を?」
「そこまでは言ってません」
草壁は椅子から立った。
「今日はこれくらいにしましょう。またお話を伺うことになります。ご自宅についても、状況によっては確認させていただくかもしれません」
詩織も立ち上がった。
扉へ向かいかけたところで、草壁が背後から呼び止めた。
「真山さん」
「はい」
「一つ、変なことを聞いてもいいですか」
詩織は振り返った。
「ご自宅の時計、正確ですか」
全身から血の気が引いた。
草壁は詩織の顔を見ていた。
「どうして、そんなことを?」
「今朝、玄関からリビングの時計が少しだけ見えたんです。そのとき、私の腕時計と時刻が違っていた気がしましてね」
詩織は返事を作るのに数秒かかった。
「十二分、遅れています」
「十二分」
「電池を替えたばかりなのに、なぜか」
「そうですか」
草壁はそれ以上何も言わなかった。
しかし詩織には分かった。
十二分という数字を知っているのは、もう自分だけではない。
建物を出たところで、スマートフォンが震えた。
知らない番号から、短いメッセージが届いていた。
『木島です。奥様と話がしたい』
その下にもう一通、続けて届く。
『警察には、まだ何も話さないでください』
詩織は立ち止まった。
午前中から連絡が取れないと、たった今、草壁が言った男。
その木島が、なぜ詩織の携帯番号を知っているのか。
三通目が届いた。
『昨夜、ご主人が死んでいなかった理由を説明できます』
秋の乾いた風が、県警本部前の街路樹を揺らした。
詩織は画面から目を離せなかった。
自分が昨夜、夫を殺したことなど誰にも話していない。
それなのに木島の文章は、まるで彼女が「一度死んだ貴之」を見ていたことまで知っているように読めた。
杉浦が読み上げた言葉は、詩織の頭の中で、しばらく文章にならなかった。『今夜が終われば、俺を殺した人間は三人になる』 三人。 数なら簡単だった。 一人目は自分。 二人目は玲奈。 では三人目は誰なのか。 けれど、貴之の言葉をそのまま数式のように当てはめていいのか、詩織にはもう分からなかった。あの男は言葉を事実の説明に使うより、相手を自分の望む方向へ動かすために使う人間だった。「その録音、続きはないんですか」 詩織が尋ねると、杉浦はスマートフォンを確認した。「現場で聞けたのはそこまでです。今、データをこちらへ送ってもらっています」「木島さんは話せる状態なんですよね」「搬送時は意識があったそうです。ただ、出血と睡眠不足、それに酒も入っているらしくて、病院ではまず処置を優先しています」「左腕の傷は自分で?」「それもまだ確定してません」 何を聞いても「まだ分からない」が返ってくる。 昨日までなら、その曖昧さに苛立っていたかもしれない。 今は少し違った。 分からないものを、急いで分かったことにするほうが怖い。 貴之と暮らしていた四年間、詩織は何度もそうさせられてきた。『君が気にしすぎなんだよ』『普通はそんなことで怒らない』『俺は君のためを思ってる』 説明されるうちに、自分の感じ方のほうが間違っていると思わされた。 今度は逆に、自分が都合のいい説明へ逃げ込もうとしている。 木島が三人目なら楽だ。 夫の計画の中心に木島がいて、最後に何かをしたことにできれば、自分の罪が少し薄くなるような錯覚を持てる。 だが、薄くはならない。 詩織はそれを、もう知っていた。 * 午後十時を過ぎたころ、草壁が戻ってきた。 さきほどよりも疲れた顔だったが、手には小型の端末とイヤホン、それから印刷された記録があった。「木島さんのボイスレコーダー、昨夜のデータを一部確認できました」 詩織は椅子に座り直す。
匿名の相手から送られてきた最後の文章を、草壁はしばらく見つめていた。『玲奈を呼び、木島を呼び、美和子さんも来るよう仕向けたのは、そのあとです』 そのあと。 詩織が貴之のコーヒーに毒を入れ、貴之がそれを飲んだあと。 もし本当なら、昨夜の河川敷で起きた出来事の意味が根本から変わる。 玲奈と木島と美和子が、たまたま同じ夜に貴之と会ったのではない。自分が死ぬかもしれないと悟った貴之自身が、残された時間を使って一か所へ人間を集めたことになる。「信じるんですか」 詩織が尋ねると、草壁は首を横に振った。「信じません」「ずいぶん即答ですね」「匿名の人間が送ってきた説明を、そのまま事実にしたら捜査になりません。ただ――」 草壁はスマートフォンを机へ戻した。「確かめられる部分はあります」「主人の通話やメッセージ?」「ええ。ご主人のスマートフォンは遺体のそばから見つかっています。端末自体はロックされていますが、通信記録と一部のクラウドデータは照会を進めています」 杉浦が時計を確認した。「デジタルの担当、さっき復元できそうだって言ってましたよね」「聞いてみてくれ」 杉浦が部屋を出ていく。 詩織は椅子へ深く座り直した。 疲れている。 身体はそれを訴えているのに、頭だけが眠ることを拒んでいた。「草壁さん」「何でしょう」「もし本当に、主人が全部分かっていたとしたら……私が半年前から何を考えていたのかまで」「はい」「どうして何もしなかったんでしょう」「先ほども言いましたが、それは本人にしか分かりません」「でも刑事なら、何か考えるでしょう」 草壁は少し困った顔をした。「私の推測を聞いて、それを事実みたいに扱わないと約束できますか」「努力します」「また努力ですか」「できない約束はしません」 草壁は小さく息を吐いた。「では、ただの仮説として聞いてください。ご
匿名の相手から届いた最後の文章を、詩織は何度読み返しても、別の意味にはできなかった。『昨夜のコーヒーに何を入れたのか、警察に話してください』 知られている。 少なくとも相手は、そう確信している。 推測だけならまだ逃げ道はある。夫が自宅でコーヒーを飲み、その後に薬物中毒を起こしたと知れば、妻を疑う人間はいてもおかしくない。 だが、この人物は貴之の最期を見ていた。 河川敷の写真を持っている。 木島が黒いケースを持ち去ったことも知っている。 そして、警察より先に死因が薬物へ傾いていることまで把握していた。「返信しましょう」 草壁が言った。 詩織は顔を上げた。「何と?」「証拠があるのか聞きます」「私が?」「ええ。ただし、文面は一緒に考えます」 杉浦が椅子を少し寄せた。「相手が真山さんに自白させたいなら、ただの思い込みで送っているのか、それとも具体的なものを持っているのかで違いますから」 詩織は自分のスマートフォンへ手を伸ばした。 指先が画面へ触れる。『私がコーヒーに何か入れたという証拠があるんですか』 打ち込んだあと、送信する前に草壁へ見せた。「いいでしょう」 送る。 既読はつかなかった。 一分。 二分。 会議室の時計だけが進んでいく。 壁掛け時計ではない。 普通のデジタル時計だった。 正確な時刻が表示されている。 それだけのことなのに、今の詩織には不思議な安心感があった。 十二分ずれていない。 誰かが意味を持たせていない。 ただ時間を示している。「来ませんね」 杉浦が言った。「考えてるのかもしれません」「それとも、こちらに警察がいることを分かっているか」 草壁の言葉に、詩織は眉を寄せた。「どうやって?」「分かりません。だから可能性として言っただけです」「もし警察の動きまで
木島隆臣の車が見つかったという報告から、一時間もしないうちに、詩織は再び県警本部の小さな会議室に座っていた。 三〇四号室で見つかった資料、美帆が持ち出したUSBメモリ、匿名の人物から送られてきた画像と音声。今日一日だけで増えた情報は多すぎて、どれか一つを理解しようとすると、別の事実がその意味を変えてしまう。 草壁は戻ってこない。 木島の車が見つかった久住川へ向かったらしい。 詩織の前には、若い刑事が一人残っていた。朝から何度も顔を合わせている男で、ようやく胸元の名札を見て名字が「杉浦」だと知った。「何か飲みますか」「大丈夫です」「今日、そればかりですね」「そうでした?」「少なくとも僕が聞いたのは三回目です」 杉浦は苦笑した。「水くらい飲んでください。倒れられると草壁さんに怒られるんで」「私の心配ではないんですね」「もちろん心配もしてます。ただ、警察官が『あなたが心配です』って言うと、急に嘘っぽく聞こえるでしょう」 少しだけ可笑しかった。 詩織は渡されたペットボトルを受け取った。 こんな状況でも、喉を通った水は普通に冷たい。 人の夫が死んでも、殺人事件が起きても、冷蔵庫で冷やされた水の味まで変わるわけではない。 その当たり前さが、ときどき残酷に思える。 机の上に置かれたスマートフォンは、警察の許可なしには触らないよう言われていた。 匿名の相手からは、あれ以降連絡がない。 木島隆臣。 最後に貴之が呼んだ名前。『木島に全部仕組まれた』 それが事実なのか、貴之自身の思い込みなのかは分からない。 ただ、木島が嘘をついていたことだけは、もうほぼ間違いない。 駅の北側で貴之を降ろしたあと、そのまま帰ったわけではなかった。 河川敷の映像に映った男が木島なら、彼は玲奈と美和子が去ったあと、もう一度貴之の前へ現れている。 黒いケースを持ち去った。 そして今、本人が消えている。「杉浦さん」「はい」「木島さ
草壁は詩織のスマートフォンを持ったまま、四通目の画像を拡大した。 河川敷の土の上に倒れた貴之。その胸元には血が広がっているが、右手は指を曲げたまま地面を掴んでおり、完全に力を失ってはいないように見える。画像の下端には黒い靴のつま先が入り込んでいた。「撮影時刻は分かりますか」 詩織が尋ねると、草壁は首を横に振った。「表示はありません。元データを調べれば何か残っている可能性はありますが、送信時に情報が削られているかもしれません」「この人が、主人の死ぬところを見た……」「そう書いてありますね」 草壁は事実と文章を意識して分けるような言い方をした。「信じていないんですか」「信じるかどうかを決める段階ではありません。写真を持っていることと、死の瞬間まで見ていたことは別です」 詩織は返事をしなかった。 自分は何度も、与えられた情報に意味を足してきた。もう同じ間違いはしたくない。 少し離れたところでは、美帆が若い刑事に事情を聞かれている。自分のデータを取り戻しに来ただけだったはずなのに、今では殺人事件の映像データを持ち出した重要な関係者になってしまった。 草壁が詩織のスマートフォンを若い刑事へ渡した。「この番号、すぐ照会を。通信経路も」「了解です」「返信は?」「こちらで考える。真山さんの文面を勝手に作るわけにはいかないから、送る前に確認します」 詩織は草壁を見た。「返信するんですか」「相手が会話を続ける意思を持っているなら」「私は何と?」「まずは単純に、『あなたは誰ですか』でいいでしょう」「それで答えますか」「凝った質問をすると、こちらが何を知っているか教えることになる」 草壁はそう言ってから、ほんの少しだけ口元を歪めた。「こういう相手には、警察より真山さんのほうが返事をもらいやすそうです」「どういう意味です?」「相手は私ではなく、あなたを選んで送ってきていますから」 それが、詩織には一番気味が悪かった。
三〇四号室の玄関前で、詩織はもう一度、透明な証拠袋の中の紙を見た。『十二分遅れたままでいい』『次に疑われるのは妻だ』 文章そのものより、不気味なのは時制だった。 貴之が生前に用意したものなら、妻である詩織が疑われる未来を予測していたことになる。 だが、佐伯美帆が部屋を出たあとに誰かが置いたのなら、話はまるで違う。 夫はもう死んでいる。 その死後も、十二分という仕組みを理解して動いている人間がいることになる。「真山さん、少し下へ行きましょう」 草壁に促され、詩織は階段を下りた。 狭いエントランスでは、美帆が若い刑事から事情を聞かれている。先ほどまでの強気な様子は薄れ、紙袋を膝の上へ置いたまま、落ち着かなさそうに指先で取っ手を弄っていた。 詩織が近づくと、美帆は顔を上げた。「私、盗んだってことになりますよね」 草壁が椅子を一脚引いた。「それについては、持ち出したものと経緯を確認してからです。今はご主人の死亡事件に関係する資料が優先です」「私の夫ではありませんけど」 美帆が言うと、草壁は一瞬だけ詩織へ目を向けた。「失礼。真山貴之さんの、ですね」 疲れているのかもしれない、と詩織は思った。 草壁も人間なのだ。 朝からほとんど同じ事件を追っているのだから、言い間違いくらいはする。 そう思った途端、なぜか少しだけ緊張が解けた。「佐伯さん」 草壁は美帆の紙袋を示した。「中身を全部見せてもらえますか」「嫌だと言ったら?」「任意でお願いしています。ただ、事件に関係する可能性が高いので、拒否されれば別の手続きを検討します」「そういう言い方、ずるいですよね」「警察官なので」 美帆は嫌そうに口を曲げたが、結局、紙袋を差し出した。 中から出てきたのは、印刷された写真が十一枚、透明ファイルが二冊、それから小さなUSBメモリだった。 草壁の眉が動く。「これは?」「私のです」「中身は?」